出版社・メーカーインタビュー【ヘブライ蒔絵師・宮元美千子先生】編

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メーカーインタビューの第5回目は、「ヘブライ蒔絵」を制作していらっしゃる蒔絵師の宮元美千子(みやもとみちこ)先生を金沢市にお訪ねしました。伝統工芸の世界に身を置きながら、チャレンジ精神に満ちた人生を歩んでこられた証言で、貴重なインタビューとなりました。


ー今日は宮元先生の自宅兼工房にお招きいただき有難うございます。まず目につくのは目の前にあるとても色鮮やかな蒔絵作品の数々です。これはどこかで展示されるのでしょうか?

宮元美千子(以下宮元)

はい。実は今年(2025年)の10月に生まれ故郷の能登半島・輪島市で個展を開催する予定なんです。その個展に展示する作品を主に制作しています。

輪島といえば輪島塗の本場ですが、令和6年元日の能登半島地震で大変な被害を被った場所ですね。そのお話も是非お聞かせ頂きたいのですが、その前にまず宮元さんの今までの経歴をお聞かせください。

宮元

私は能登半島の輪島市の出身です。輪島にいたら漆(うるし)の仕事をするのはごく普通のことでした。工房に弟子入りしていなくても、普通の主婦のおばちゃんたちがどこかの工房で下研ぎ(工程の一つ)の仕事をしている、そういう環境でした。

クリスチャンだった父が写真館を経営していまして、私が中学生の頃に副業で漆によるシルクスクリーン印刷を始めました。おみやげ物や記念品なんかを作る工業的技法です。牧師さんが書かれた文字を写真で撮って、漆で蒔絵風に印刷する仕事を請け負ったりしていましたね。

ご実家は写真館だったんですね。蒔絵師の家系ということではないんですね。

宮元

そう。私は二人姉妹だったんですが、高校を卒業するときに姉が結婚をすると、父は私に漆シルクスクリーン印刷を継がせたいと思ったんでしょうね。修行として漆の仕事をするように私に促しました。物づくりはきらいじゃなかったので、

「じゃあ木地(※輪島塗で木を削っていく最初の工程)の仕事をしたい」

と言ったら女の子に刃物を使う危ない仕事はさせられないと反対されました。

それで知り合いの蒔絵工房「福久(ふくきゅう)」(※日展作家の福久清一氏が営んだ工房)に弟子入りさせようということになったんです。でも当時は女性の蒔絵師は珍しく、親方にとっても初めての女弟子でした。親方は

「木地がしたいなんていうじゃじゃ馬か。だったら忍耐力もあるかな」

と面白がって弟子入りを許可してくれました。

しかも、父の勝手な言い分でしたが

「蒔絵師になるんだったら絵の勉強をした方がいい」

という条件を親方がのんでくれました。それで金城短期大学(現在の金城大学短期大学部)の美術科に二年間通って日本画の勉強(日本画家丹羽俊夫氏に師事)をして後に工房に弟子入りしました。これも高卒後はすぐに弟子入りするのが当たり前だった当時としては、かなり新しいことでした。

女性蒔絵師、そして絵画の専門教育を受けた蒔絵師ということのそれぞれ「走り」ですね。弟子入り奉公は大変だったんじゃないですか?

宮元

蒔絵工房の弟子入りというのは、親方に仕えて4年間は無給で働く(年季奉公)という世界です。女の子は務まらないだろうと言われましたが、私が首尾よく仕えたおかげで、私の後はみんな女弟子ばかりになったんですよ(笑)。福久先生は弟子をたくさん育てたことで、輪島の業界団体から感謝状を頂いていましたね。

私は年季が明けてもそのまま福久に職人として残りました。年季明けしたら父の仕事を手伝うはずだったんですが、蒔絵の世界の奥深さを父も知ったようで、

「弟子入して、年季明けまでさせてもらっておいて、こんな印刷系に使うのはもったいない」

と工房に残るのを許してくれたんです。その後にクリスチャンの男性と結婚しました。今の主人です。主人は隣の珠洲(すず)市の出身でしたが、輪島に引っ越してきてくれたので、結果として工房に残ることが出来ました。

でもそれから今住んでいらっしゃる金沢市に出ていらっしゃるんですよね。

宮元

私たち夫婦の土台はあくまでキリスト教信仰なんです。当時も今もそれが一番大事なことです。

その当時、石川県では都市部の金沢市でちょっとした信仰の覚醒運動(リバイバル)が起こっていました。信仰生活を続けるのに輪島ではクリスチャンの教友が少ない、もっと深い信仰的生活をしたいと、あるとき金沢市に出ることを決断しました。一度は主人が自分の仕事を辞めて輪島に来てくれたんだから今度は私が主人のために仕事を辞めよう。私の願いは一旦神様に預けて金沢市に出ようと心に決めました。

それはいつ頃のお話でしょうか。

宮元

娘が小学生になっていましたから1990年代ですかね。一旦決心したのに工芸的なことに関わると未練が出るので、ただのパートのおばちゃんになろうと漬物屋に勤めました(笑)。

余談ですけど、そのころ里帰りで輪島に帰ったら輪島の友達は「漬物屋なの?いいとこ勤めたね!」ってみんな喜んでくれたんです(笑)。輪島の人にしたら、漆産業があまりに身近過ぎて、お漬物屋は漆の仕事をしている人間より上に見られる。日展作家の弟子より漬物屋のほうが上っ(笑)。

では蒔絵のお仕事からしばらく離れた時期があったんですね。

宮元

ほんとに一瞬、蒔絵から離れましたが、不思議なご縁があって、金沢では蒔絵教室の先生の仕事を頂くことが出来ました。いわゆるカルチャー教室ですよ。私はずっと輪島で職人をやってきたので技術は持ってるつもりでした。そこで「教える」という形でもう一度蒔絵師としてのキャリアを再開したんです。 

雇われ教師ということですね。最初からご自分で教室をされたわけではなかったんですね。

宮元

そう、雇われですが蒔絵教室を開いていたお店の場所が駅前ですごくいいところだった。近隣のマンションに住んでいる方なんかが口コミでどんどん広げて下さって、生徒が集まっていい感じで教室の運営もしていました。でもだんだん生徒さんも増えてきたなと思っていたある時、お正月休み明けに教室に行ったら、教室を開いていたお店がなくなっていました。オーナーが夜逃げしちゃったんです。

えええ!なんというか、私の予想の斜め右上(笑)。波瀾万丈過ぎますね。

宮元

そうでしょう。それで、今通っている生徒さんのケアをどうしようかと思った時に、

「じゃあ私の自宅でお教室を続けます。今現在の生徒さんの作品制作が終わるまで責任持ちます」

と言って自宅を開放したんです。でもその後も教室を続けてほしいという生徒さんたちの要望が強くて、結局自宅で教室を続けることになりました。ここでも言わせてもらうと「金沢での蒔絵教室」というのも私が「走り」だったようです。

蒔絵教室も「走り」でしたか。金沢は加賀百万石のおひざ元ですから、職人の町というイメージがあって、教室なんて沢山あるのかと思っていました。

宮元

もちろん金沢には人間国宝の方とか、職業蒔絵師の方はいらっしゃるんですよ。それで狭い世界なので、私が教室の運営で成功したというのを聞いて真似する方が出てきた。一時期たくさんの教室が出来ましたが、多くは辞めていかれました。

それはどうしてですか?

宮元

教室を運営するということは、自分の作品の制作時間が削られるということなんですよ。「漬物屋のパートタイマー」が「サイドビジネスとして蒔絵教室をしている」状態の私と違って、日展などに出品しようなんて作家さんにはとてもやっていられなかったんでしょう。

それにね、私が感じるのは、金沢で蒔絵が産業として成立していると言っても、漆芸はマイナーな産業だということです。輪島は関わっている人が圧倒的に多いですから、目が肥えている。金沢も輪島も技術者は他県にくらべたらすごく多いですが、輪島は普通のオジサンが有名な作家さんだったりする。専門家の方々は、漆の技術が一番確かなのは輪島だとおっしゃっています。

専門家の方々の意見は、漆芸については輪島に軍配が上がるんですね。技術的なことについて何か専門家の方からご意見を頂いたことなどはありますか。

宮元

金沢で教室を始めてしばらくしたある日、某大手全国紙の新聞に私の投稿が載りまして。それを読んだ方からすぐに連絡が来ました。その方は東京国立博物館で漆の修復の仕事をしていて、自分の仕事の参考にしたいから是非技術を学ばせてほしいと言ってこられたんです。「良いですよ」といったら、東京から一週間ほど休みをとって毎日私の工房に通い詰められました。


-そんなことがあったんですか。昨今テレビドラマなどでも見かけるいわゆる文化財の修復師という職業の方ですね。

宮元

その方も修復師としてはちゃんとしたキャリアを持った方でしたが、「長年やっていて自分の修復の仕事に疑問を感じている。その答えが宮元さんの技術にあると直感した」と言って、教えを請いたいといらっしゃいました。それ以後数年にわたって年に数回ほどいらっしゃる時期が続きました。一回来る毎に一週間ホテルに泊まって、一日中工房で一緒に漆芸品を製作し、昼ごはんも一緒に食べて、色々質問もされて、漆の話しかしない数日を過ごすんです。

「取材でヒントを得たことを修復に応用したらうまくいった」

なんて報告もよくしてくれました。私たち漆の世界の職人にとっては何気ない所作でも、なにせ知られていない世界ですから。その修復師の方にとっては初見ですごい技術に見えたんでしょうね。

-淡々と話しておられますけど、すごいエピソードですね。ところで輪島では実用美術というか漆器に蒔絵の絵付けをやってらっしゃったわけですよね 。でも宮元さんの作品はキャンバスのようなプレートに蒔絵を描いていらっしゃって、純粋に絵柄を楽しむようになっています。

宮元

蒔絵教室ですから、生徒さんには自由に自分の絵柄を楽しんで欲しいんですよ。お茶碗に蒔絵を施すとなると、漆茶碗を買うのに数万円かかります。とてもお教室に通ってくる主婦の方々には出せない金額です。それにお椀だと曲がっていて描きにくいでしょう?キャンパスのような板だと描きやすいし教えやすい。

-なるほど。生徒さんのための工夫だったんですね。ところでヘブライ蒔絵と命名した異国情緒あふれる作品はそのグループ展で始められたんですか?

宮元

そうですね。教室の方もなんとか生徒さんが育って、グループ作品展を定期的に開催するようになると、毎回趣向を凝らすようになりました。皆さんに見てもらうことをしないとやっぱり生徒さんも張り合いがないでしょう?

それでグループ展を開催するに際して、生徒さんの素人作品だけでは面白くないから、先生としての私の作品も出品する。その時に、ヘブライ語の入った作品を出すと面白いかなと思っていくつか描いたのが思いのほか好評でした。文字を蒔絵作品に取り入れるというのは伝統的手法としてはありますが、さすがにヘブライ文字を取り入れたのは私が初めてです。

-こういうこと言うと失礼ですけど、当初よりヘブライ語のカリグラフィー(文字装飾)が上手になってきておられますよね。

宮元

そうなんですよ(笑)。ヘブライ語の文字を四六時中見ていると、さすがにちょっとずつ分かってくる。最初はイスラエル留学帰りの甥子に手ほどきをしてもらっていましたが、今はどこで文節を切ったらいいのかとか、なんとなくわかるようになりました。カリグラフィーとしても洗練されてきました。

-作品についても少し解説をお願いいたします。

宮元

私がヘブライ蒔絵と呼んでいる作品は、はっきり言って輪島塗蒔絵の世界では異端です。輪島にいたらヘブライ蒔絵なんて絶対にやらなかった。本来の蒔絵は図柄が花鳥風月なんです。伝統的に日本に受け継がれてきたそういった縁起の良い図柄があるにも関わらず、私はオリーブなど聖書が題材の図柄を描くし、入れる文字もヘブライ語です。

-蒔絵には数十工程もの手順を踏むと聞いていますが、技法についてはどうなんでしょう?

宮元

作品によっては当然そういった工程を踏みますよ。描いて蒔いて塗って乾かして研いでまた艶上げて・・・技法によりますがもっと工程数があります。でもそれだけじゃない簡単な技法でも完成度をあげるということに今は挑戦をしています。

-具体的にはどういったものでしょう?

宮元

例えばこの作品(色鮮やかな蝶の図柄の作品を見せる)。ベースに漆を塗って“金粉を蒔いて”削るだけっていうことなんだけど、一番簡単な技法です。まあ削るだけでも実際は大変ですけどね。金粉を蒔いて研ぐという工程じゃなくて、漆で書いたところにこういうカラフルなエルジー粉(着色したアルミニウム粉)を真綿で蒔き付けるという技法です。エルジー粉は比較的新しい素材なので、一昔前は伝統工芸としてはあまり良いと思われてない、お土産物という扱いでした。でも私はこれをちゃんとした蒔絵の技術で芸術品というか美術品にしたいと思って取り組んでいます。だってきれいでしょ?すごくきれいな仕上がりになるんです。

-図柄だけでなく、技法としても新しいことに挑戦していらっしゃるんですね。

宮元

そうなんですよ。ベースにこういう色を蒔いて鉄筆(てっぴつ)で削っていく。鉄筆と聞いてわかりますか(笑)。ガリ版刷りなどで昔は使っていたものです。一発勝負だから失敗は許されない 。削って出来上がったところに文字を入れるんですけど、このベースを作ってあまり時間が経って定着してしまうと、鉄筆で削れなくなっちゃうのでタイミングが難しい。輪島の職人さんに言わせると邪道かな。結構面倒くさい技法ですね。

-さて能登半島の復興のために今現在取り組んでいることがあるとお聞きしています。あまりお話をしたくないこともあるかもしれませんが、宜しければそのことについてお聞かせいただけますか?

宮元

(少し間があって)あの日(2024年1月1日)、金沢で私も被災をしました。輪島にある実家は全壊です。実家を工房として使おうと、壊れたトイレと台所をリフォームしたばかりでした。リフォームして一回も使わないまま全壊です。

実家がある輪島の惨状をテレビで見て、そして実際に現地に行ってみて愕然としたんです。心が完全にフリーズしてしまって、はた目には日常生活を普通に過ごしているように見えても、何食べても味がしない、私の見ている世界は白黒の世界に感じる。自分がどう頑張っても目の前の惨状をどうしようもないもどかしさ。新聞に行方不明者の名前が出るんですが、みんな知り合いばかりなんです。

「誰それの家は全壊した、誰それはまだ行方不明、友達の遺体を見つけて救助しようとしたら、遺体から血しぶきが出てそれを浴びた」

なんて生々しい話も身近に聞くわけです。自衛隊とか消防隊の話ではないですよ。一般市民の体験です。

そんな状況で復興なんて全く考えも及ばないでしょ。祈るしかないけど、祈っていると自分の無力さを思い知るようで叩きのめされる。そんな感覚分かってもらえるでしょうか。現実は何もできないのに、何ができるだろうって考え続けるしかない日々が続きました。

でもね、その年のペンテコステ記念集会(礼拝)に参加したんですが、みんなで祈っていたら、

「そうだ、私自身がキリストの生命に触れて喜んでいないと何をしてもダメなんだ」

ということを悟らされたんです。能登の復興だと言って多くの慈善団体や宗教団体がここぞとばかりにやってきて、言い方はあるけれども大々的に宣伝もしている。でも私は多くの宗教の精神的バックボーンになるような祈りをしたいと思った。仏教徒の人は仏教徒の祈りで、神道の人は神道の祈りで、キリスト教徒はキリスト教徒の祈りで復興しようというのなら、そのすべての宗教宗派を超えた根源の世界を相手にして祈ろうと思ったんですよ。

-大きな祈りですね。宮元さんの作品の背後に、そういった祈りの心が込められているんですね。

宮元

私だけの想いではありません。私の父の口癖は「能登半島が聖霊半島になるまで祈り続けるぞ」ということでした。「そんな大それたことを言って」と若い頃は思っていましたが、父の思いも今は背負っているという思いです。

能登地震というつらい目を通して悟らされたことはこれです。だからやはり私は祈り続けるんです。一年もたつとどんどん復興も進んでいます。復興といっても当時潰れていた家が全部撤収されて、何もなくなっていくんですよ。自分の実家に帰ろうと思っても目印になる建物がごっそりなくなっている。撤収はされても再建はまだまだ先。だから名物の輪島朝市はもう何年後に復興されるかわからないですね。

-その後、昨年2024年の9月には奥能登豪雨(集中豪雨災害)が起こりました。

宮元

はい。地震で倒れたものは戻せたけど、豪雨で泥水入ったものはもう直せない。やっと借金して家もお店も立ち直した街はまたすべて水の泡になりました。あの泥水でもう心が折れたっていう人が多かった。 避難所に入り、そして今度は仮設住宅に移動して、炊き出しで食べさせてもらう。

「もう自分たちは家畜と一緒じゃないか。生きているだけ。何の楽しみもない。」

という声も聞きました。狭い仮設住宅にいたら友達呼んで団らんすることもできない、喋ろうという気にもならない。

-本当に能登の方々にとってはつらい一年となりましたね。言葉もありません。

宮元

そんな時に、輪島で歌手のさだまさしさんがトレーラーハウスを使った「みんなのライオンカフェ」っていうのをされたんですね(※「風に立つライオン基金」の社会事業)。それが大好評だったんです。私の友達もそこで初めて笑ったって。

ある時ご縁があって、そのライオンカフェの仕掛け人の方とお出会いしてお話しをしたんです。そこで意気投合しまして、そんな憩いの場所でヘブライ蒔絵作品展をやってみないかということになりました。

-故郷の能登半島、そして輪島にかける宮元さんの思いが良く伝わるエピソードですね。

宮元

そういうわけで2025年10月の3連休に道の駅輪島(ふらっと訪夢)で展示会イベントを開催します。ヘブライ蒔絵の展示会を販売目的じゃなくて、慰めと励ましの場にしたいんです。励ましの言葉が書かれた作品を見て輪島の皆さんが語らって、和む場にしたいの。

場所は旧輪島駅の2階、36畳もある和室です。幸い、「和紅茶」の普及に努めているという協力者の方が表れて、おいしいコーヒーと和紅茶でおもてなしをしながらの憩いの場を提供できることになりました。私の復興への祈りが、神さまの導きによって具体的に形になりそうです。 

-よくここまでこぎつけましたね。具体的に波に乗るように物事が進んでいく、導かれることってあるんですね。

宮元

現実は大変ですよ。具体的に言うと、金粉の値段がロシアの戦争で上がってしまって、従来の基準から言うと金粉代だけで〇〇十万円損失です。でも災害の支援補助金を申請して何とか開催にこぎつけました。

-材料もなかなか手に入れづらい状況なんですね。

宮元

仕入れ先から

「こんなまとまった買い方してくれたの、宮本さんが初めてやわ」

と感謝されました。私が買い付けすることで、仕入れ業者の方も潤いますからね。それから、この水牛の角でできたスプーン。これは仮設の輪島朝市に行った時に買い付けました。これに絵付けをして販売します。買い付けたときに市場の方に

「ヘブライ蒔絵の展示会をするんよ」

と言ったら

「楽しみやね。私行くわ」

って言ってくれた人もいたんですけど、中には

「そんな、あんたな、神も仏もおらんよ。神様が本当におるんやったらこんなこと(災害)にはならんやろ。」

っていう人もいましたよ。

でもその時に不思議に一言が言えたんです。

「本当にその通りです。返す言葉もありません。だけど私は神様がいると思っているので、皆さんの光になるもの、慰められるものがないかなと思ってこのヘブライ蒔絵展をやるんです。よかったら来てね」

って私の中からもう一つ突っ込んで言葉を言えたのはやっぱり信仰の力だと思いました。

-今日は貴重なお話を有難うございました。

※2025年10月にふらっと訪夢で開催予定のヘブライ蒔絵展示会に出品される作品は、展示会終了後にイーショップ教文館で販売する予定です。

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宮元美千子(蒔絵師)略歴:

1977年 金城短期大学(現金城大学短期大学部)入学 日本画家丹羽俊夫氏に師事

1979年 金城短期大学 美術科日本画科卒業

同年漆芸家日展作家 福久清一氏に師事 弟子入り

1983年 蒔絵年季明け 漆工房「福久」の職人となる

1984年 イスラエル旅行(聖地巡礼)

1994年 石川県金沢市にて蒔絵教室「グループ・マソレット」主宰開始

1998年 「ぶらっく」「兼六画廊」「バルク片町」「エルフ金沢」等金沢市地元ギャラリーにてグループ展開催(以後16回に渡り開催)

2003年 ミニ個展「蒔絵とイスラエルソング」を開催

2016年 二度目のイスラエル旅行(聖地巡礼)

2017年 漆芸でヘブライ語を表現する個展「Hebrew On 漆」を開催

2022年 銀座教文館にて個展「ヘブライ蒔絵の深淵なる世界 宮元美千子展」を開催

2023年 「Gallery SOUVIN」にて「ヘブライ蒔絵の深淵なる世界-日本とイスラエル国交樹立70周年記念 宮元美千子金沢展」を開催

美術展への出展 :

サロン・デ・ボザール展

輪島市美術展

国際亜細亜現代美術展

国際公募 日創展 等

努力賞、海外選抜賞、金沢市議会議長賞など各賞受賞

※日本画含む

現在は伝統工芸への理解を深めるため、金沢大学附属小学校、金沢市立泉野小学校、小坂小学校などへ出張教室を行い、小学生やその父兄に体験教室を開いたり、年金機構、各地の公民館での出張教室、講演を継続的に行なっている。

 

メーカーインタビュー

宮元美千子(蒔絵作品)

ユナイテッド・プランニング社

シャローム工房

丸福巧芸